白滝の鉄道史 2009.04.30 (木)
・・・広がる鉄道・・・

 明治13年 北海道発の鉄道誕生(日本では三番目、のちの手宮線・札幌~手宮)。
  官営幌内鉄道です。(北海道初・日本初の簡易軌道は、茅沼炭鉱軌道ですが)
  アメリカ人技術者クロフォード(いわゆるお雇い外国人)の指導のもと、
  明治15年 炭鉱のある幌内までつながります。(幌内線・札幌~幌内、幌内太) 



旧・手宮駅跡、小樽交通記念館。後ろの扇状機関庫は文化財。アメリカ製のアイアンホース号が、構内にて動態保存されています。
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交通記念館内にある、ポーター製の「しづか号」。明治開拓期に活躍した機関車。
大阪に義経号がいます。
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三笠の鉄道記念村。幌内駅跡。幌内太駅跡はクロフォード公園になっています。
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SLも構内で動態保存しています。この日は夕方に行ったので運行に間に合いませんでした。
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  炭鉱資源の確保などに伴い、企業が鉄道を敷き、(資源型鉄道)
  国が補助金を出して私鉄に経営させ、道内に次々と鉄道が敷かれるようになりました。
  もっと、はやく、安く、大量に、安定した輸送・交通が求められます。
  
  炭鉱だけではなく、ロシアに攻められるのではないかという危機感もあり、
  札幌にあった軍隊をより北の旭川に移転させます。(旭川第七師団)
  経済的にも軍事的にも、北海道全域の開拓のためにも鉄道は最重要と考えられたのでした。

  明治22年鉄道は企業に払い下げられ、北海道炭鉱鉄道が成立。炭鉱も民営化します。
  (これにより企業は開拓と利益のため、囚人労働をすすめ、タコ労働が発生します)
  明治29年北海道鉄道敷設法が公布。 
  それまで企業の私鉄中心だったのが、官営主体で鉄道を敷くようになります。
  (企業主体では、利益の出るところ以外に鉄道が広がらないからだとか)
   屯田兵が旭川永山、湧別、北見、端野、などに入植し、村を作っていき、
  だんだん北海道移住が増え、道東方面にも鉄道もひろがります。

  明治31年7月 旭川~空知太 (上川線)開業。 難工事区・石狩川と神威コタン
    38年10月 釧路~帯広 (釧路線) 十勝地方の開拓を計画
  明治40年 9月 旭川~帯広 (十勝線) 難工事区・狩勝トンネル
    工事開始から10年、 旭川~釧路が全線開通し、釧路線と改称します。

  富良野、池田経由で北見・網走に鉄道計画はありましたが、
  明治32年、33年、網走・常呂・紋別地方の住民が、「北見鉄道速成会」をつくり、
  北見管内の鉄道の必要性を国に願い出ます。
  明治42年、「北海道鉄道期成会」により鉄道路線を18選定。
  網走から名寄までの、北見各地を結ぶ路線も選ばれました。
  
  路線の経由をめぐっては、やはり鉄路が地元に利益をもたらすものであるために
  対立もあったようです。
  池田~網走間の網走線は、はじめ池田~陸別~津別~美幌~網走でした。
  屯田兵村本部のある 野付牛住人は
  陸別~置戸~野付牛~緋牛内~網走湖西側~網走の、中央道路路線を要求。
  今度は、美幌住人の猛反発があって、
  池田~陸別~置戸~野付牛~美幌~網走湖東側(女満別、呼人)~網走に決定。
  大正元年 網走線 が開業しました。

網走線、池田から野付牛(北見)までは池北線、のち第3セクターちほく高原鉄道、ふるさと銀河線として運用されていました。
多くの労務者の苦しみによって敷かれた重要なこの線路。なんとか存続をとの願いもむなしく、
平成18年4月廃止。
過酷な労働、栄養状態も衛生状態も悪くマラリアの発生もあったそうです。置戸付近には土工夫の慰霊碑があります。
写真は廃線前平成17年秋のもの。池田駅。
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北見駅。999の主役、鉄郎。松本零士氏によるラッピング列車も走っていました。
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メーテル・・・・こんなところで逢えるなんて。相変わらずお美しい。
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小雨降る中、走る列車。大人も子どももテツは先頭にいます。見えているのは小利別駅。
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どこの駅だったか・・・これは上利別駅。横見さん曰く「板きれ」の駅も数多くあったこの路線。
この駅は立派です。この趣のある駅には降りる人もなく、線路もなくなった今はどうなっているのかな。
かすかであっても、人の記憶の残る場所がだんだんなくなります。寂しいです。
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白滝の鉄道史 2009.04.27 (月)
・・・駅逓と、白滝発祥・・・

  道路ができて、北海道独自の「駅逓」えきてい制度がはじまります。
  駅逓は、道路を通り利用する旅人や商人が、休んだり宿泊したりする施設です。
  今で言う旅館と道の駅と郵便局や宅配がくっついたようなものでしょうか。
  旅籠、とか運上屋といわれていたもの、宿場町に近いようです。
  明治26年、 中央道路沿いには12ヶ所、国によって設けられ活用されました。
  駅逓所はほぼ、中央道路工事の仮監跡地にあり、
  馬や馬そりなどが使われていて、取扱人が国から遣わされ駅逓所に住んでいました。


写真は、紋別市の上藻別駅逓。当時の駅逓の雰囲気をのこす、文化財指定建造物。長男撮影。
鴻之舞金山の功績、豊富な資料が展示されています。長男は鴻紋軌道跡と、坑内車両目当て、次男は当地の虫さんたち、資料いじり、保存会のおじさんたちとのおしゃべり目当て。大好きな場所です。鴻之舞金山と上藻別駅逓
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駅逓に保存されている、金山の坑内車両。DL。当時の色に復元、塗らせてもらった長男。
保存会の皆様、いつもあたたかく迎えてくれて感謝です。
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鴻紋軌道遺構。長男撮影。
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  白滝近辺にあった駅逓は、遠軽の野上(六号)、丸瀬布の滝ノ下(七号)、
  上白滝の滝ノ上(八号)。
 
  明治26年、八号滝ノ上駅逓開設。
   この八号の取扱人が、白滝史上初の定住者だったようです。
  (長野県出身、札幌郡白石村に住んでいた中沢兼三郎さん、養子の中沢沢治さん)
  この八号は、中央道路と湧別川合流地点にあり、八号の沢川付近にありました。
  大正4年に「白滝駅逓」と改称。
  昭和7年に石北本線が開通し、それを受けて昭和8年に廃止しています。

  明治33年には、民営で白滝寄りの北見峠にも駅逓ができました。
  十三号仮監の建物を使ったと見られています。
  そこに派遣された方(石上藤蔵さん、石川県出身。函館に住み、のち六号駅逓で働く) が、
  厳しい気候と利用者の少なさにそこを離れたので、
  明治35年、あらためて国によって駅逓所がたちました。(上川の上越寄り)
  北見峠駅逓から峠駅逓と名称と場所を変え、鉄道完成の後、
  昭和10年廃止。
  
鉄道のない時代、駅逓はあってもまだ森深く、白滝中心部から峠までは一日がかりの行程です。クマよけのため太鼓を抱え打ち鳴らし、たいまつをたきながら、夜に峠の駅逓に行き着いたという話を聞きました。

  明治35年、最初に峠の取扱人だった石上さんは峠を離れたこの年、旧白滝地区に入植、
  これが白滝の農業のはじめ、開墾のはじめです。
  石上さんは中央道路工事の際、食料を運ぶ仕事をしたそうで、
  看守に内緒でおもちを振舞い、涙を流して喜ばれたという話が残っています。
  ここは白滝発祥の地なので「旧白滝」といわれました。


旧白滝駅。元は乗降場でしたが、今は国鉄民営化に伴い駅に昇格。テツの長男とまねっこの次男。
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   (普通、元、とか 本、とかをつけることが多いんですが・・・なんで旧に・・・・・・
  ともかくこれが旧白滝駅の、「旧」の由来です)
  石上さんは、白滝地区の湧別川(永代橋付近)渡し守もなさっていました。
 
  明治37年殖民地開放、明治42年 下白滝に宮城から数名入植しています。


・・・白滝村の広がり・・・
  
  この頃、国は代表者を立てた集団による北海道移住を奨励、
  明治45年 上白滝に紀州団体が54名入植。
  これをもって「白滝」の集落が始まります。
 
  紀州団体の代表の、植芝 盛平さんは、合気道を開いた方です。開祖。
  当時、上湧別村議会議員も勤められ、「白滝王」とよばれたそうです。
  植芝翁は、大正8年、父親危篤により白滝を離れますが、
  現在も合気道を介した縁があり、白滝は合気道のゆかりの地なのです。 
 
  大正2年 奥白滝に宮城団体10戸、福島団体18戸入植。
  支湧別に秋田団体、奈良団体が入植。
  その後も、山形、長野などから団体入植しています。
  大正6年 白滝大火発生。大規模な山火事がおき、白滝地区は壊滅状態になり、
  白滝を離れる人もいたようです。が、結果として開墾が進み、村は住民の大変な努力により再建、
  発展します。産業はほとんどが林業。森林資源により頼む木工場がかなりたくさん存在していました。
  稲は寒さで育たず、ジャガイモを作ったり、薄荷を栽培していました。
  
  「白滝」は下白滝にある、湧別川の小さな落差の滝。(村名発祥の碑あり)
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碑に使われている黒曜石。
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  むかしはほんとうに水しぶきが岩肌にかかる、勇壮な、景勝地だったそうです。
  大正11年の大雨で岩が崩れ、滝の規模が小さくなってしまったそうですが、
  今でも空気は澄み、白いしぶきと荒いながれが とても美しいところです。
  (十一号仮監・囚人墓地がこの近くにありました)
  
  ここから下を見ると、S字にカーブを描いた線路が見えます。
  雑誌にも載る、美しく有名な鉄道写真ポイントです。ノースレインボー車両、
  臨時特急・流氷特急オホーツクの風。キハ183系5200番台。2月いっぱいの運行です。
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道内外から鉄道ファンがよく訪れます。
こんなのも通ります。これもオホーツク、先頭はキハ183系の100番台。中間車改造です。
上下とも長男撮影。
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  この付近にはじめて人が入植し、「白滝」は地区全体を指すようになりました。   
  白滝ははじめ湧別村、のち上湧別村に属し、
  遠軽・生田原・丸瀬布・白滝地区は遠軽村として
  大正8年上湧別村から分かれます。
  その後、遠軽村内でも分村の話題はたびたび起きたようで、
  人口が増え、生活に関わる公的な手続きなどに支障をきたし、(出生届や死亡届、
  商売に関わる書類なんかを、遠くまで行って出さなくてはならない、 など)協議を重ね、
  大正11年、白滝村として開村。それぞれの地域も独立します。

 
  で、
  平成18年、遠軽町と合併。白滝は遠軽町白滝となりました。
  かつての地域もみんな合併。
  遠軽町についてはこちら
舌がんのこと 2009.04.24 (金)






今朝ダンナの歯が抜けたという。
歯はつやつや元気なのに歯の下の骨の部分が、まるでカーリングのブラシのようになってる。
歯のあのM字のような部分が。放射線による壊死。
来週こちらの主治医と信頼できるいつもの歯科医にもう一度診察してもらい、
あらためて来月「都会」の主治医のいる大学病院へ。
おそらく、対症療法的に、留め置き、夏休みに再再建手術をすることになるだろう、とのこと。
昨日の診察のあと、今朝のこの連絡。

なんせ、食べられない、しゃべれない。今日もそれでも学校に行き、授業をするダンナ。

再建といっても、もともと最初の手術で左の歯と一緒に骨は取ってしまっているから、入れ歯といってもそれを支える骨がないので、どっかから骨か金属か何かを顎のなかにくっつけて云々。
それも、有効かどうかは分からない。
なんせ、あまり例がないらしい。やってみて、だめなら、また考えるしかない。
この先もきちんとしゃべれる保証はないし、食べられる保証はない。
ということは、教師としての仕事ができる保証もない。
いつまで、自分はこうして生きていられるか、と、つぶやいたりもする。
まあ、教師ができなくなったら、ジオパークか何かの関連で引き取ってもらうしかないけどね~
って、笑ってみたりもするダンナ。
・・・本気じゃないくせにね 引き取ってもらうだなんてそれは相応に努力してる人間が言うもんだ

こんなときは、笑っとけ。
よく、Gackt氏が言う言葉。

前に入院したとき看護婦さんに、主人を笑わせてもいいですか、と聞いたことがある。
舌の切除をして、首のリンパを取って、歯も骨も取って、筋肉も取ってるから、顔の表情の筋肉を笑いで動かしても支障はないか、という意味で聞いたのだけれど、なぜか看護婦さんは絶句、涙を流した。

・・・いいんですよ、笑わせるのは大丈夫です。笑わせてあげてください。大事なことです。

「出来ないことを挙げ連ねて、泣いても仕方がない、ないものは無いんだから。でも、笑うことは出来る。
 今しかできないことを今しよう。仕事が出来ないんだったら、違うことでやりがいを見つける。 一度、死んだ身だから。」
と よくダンナは言う。 それはもっともな話だね。その通りだと思うよ。
でも実際ホントにそれができているかと言えばね、出来てないよ それももっともなことさ
いいことをいいたくもなる 時にはそんな気持ちにもなる そうでない気持ちにもなる 気持ちって体調によって波打つものだ


主が与え、主が取られたのだ。
主の御名は、誉むべきかな。

とか言ってるけど  なんで・・・・?どうして・・・・?と つぶやく 理解のないやさしくない妻
そんな簡単に 優良な患者にはなれない 優等生ばかりじゃないし きれい事で生きていけないし

しゃーないな



人それぞれに内に宿るものがある。
幼い頃、母は、大きく深く内に宿っていた。逆説めいているが、人は内に宿るものによってつつまれる。幼子のココロに母が宿るとき、幼子は母の温もりの中に優しくつつまれている。

内に宿るものが幸せなものばかりとはかぎらない。
憎しみが内に宿れば、毎日がつらい。
人の心は実にあまのじゃくだ。
思い出したくないものに限って、思い出してばかりいる。
人は、内に宿るものにつつまれるという法則は、憎しみの場合も同じ。

憎しみが内に宿る者は、憎しみにつつまれる。

愛する者が内に宿る者は、愛する者につつまれる。

・・・
人は皆孤独だが、内に宿る人がいる限りは、孤独は必ずしも寂しいものではない。
その孤独には、ひとり静かに泉の畔にいるような穏やかさがある。
・・・
恥多く生きている。罪深く生きている。
ただ、それをだれよりもよく知ってくれている者がいると言うことが、私の救いなのだ。
そう、
すべてを知ってもらっている。つつまれているとは、すべてを受け入れてもらっているということでもある。


「あなた方がわたしの内におり、わたしもあなた方のうちにいる。」(ヨハネ14:20)

・・・師、重富先生の言葉。



友へ。


私が、あなたにとって、まだ、
「道をまっすぐにせよ、と、荒野で呼ばわる者の声」であるといってくれるなら、
あえて、わかっていても、聞いてね。

大切なものを得るために、あるいは得たことで、
大切な何かを失う。大切な何かとひきかえの、人生なのかなって、あなたは言う。
みんな、そうなんだよね。大切なもの失う分量と、得る分量は、誰だって同じ。おんなじなんだもの。
ただ、それに、鋭く、気が付いているかいないだけかなんだと思う。気づかないよりましだよね。
痛みが続いたまま、
自分に刃をたてたまま、まだ、対峙している自分がいることに、
辛くて目を避けたくなることもあるけど、たとえ自分の命を失ったって、その辛さが消えないのはわかってる。聖人じゃないからねえ。
私もね、もう、許したと思っていても、やっぱり、許してない自分がいて、憎んだりする自分がいて、そんな自分が嫌で嫌で。だって、そんなに人間出来てないし。でもね、それは、それも、結局やっぱり自分なんだっていうことに気づかされるだけなんだわ。
だから、

あなたはあなたで、あなたの愛した人と共に歩んで、すべて引き連れて、生きて下さい。
あなたがそれを望んだ通り。
時々は、また前を向くのが辛くなるときがあるだろうけど、そんなときは、いくらでも、下を向いたり後ろ向いたりしてもいいと思うんだ。
前を向くときが来るのを実は知っているあなただから。
大切な何かを失うことで宝を得ることもあるのを分かってても、そんなことしてまで得ようと思わない、なんてつぶやいたりしてもいい。

覚えていますか。あの時、
あなたが死んでしまうのではないかという得体の知れない直感で、
わたしは、あなたに、死なないでね、生きていてね、と、言い続けました。
死なないよお~(笑)って、あなたは言っていましたが、
私は不安で、不安で、死なないでねえ、生きていてねえって、いってました。

しつこく言わずにはいられなかったんです。
あなたにそのとき何があったのかもよく知らなかったけど、失わせるわけにはいかない、そう直感したから。

死なないでね、生きていてねって。死んだって何にもならないさ

私があなたに生きていてほしいと願ったから、あなたは生きなければならない。
それは別にやさしさや思いやりからの言葉ではなく
真剣にあなたが死のうとしていないことがわかっていたからです

そんなやつに簡単に「死にたい」なんて重要な言葉を吐いてほしくない
なにかと引き替えなら、なおさらです。
ね。
そうだよね。



笑っとけ。また、いつか、会ったときには、笑っていようね。



白滝の鉄道史 2009.04.23 (木)
・・・「法に二重の刑あるべからず」・・・

  明治24年12月、中央道路工事終了。8ヶ月という驚異的なスピードでした。
 
  明治27年、この、死刑でもないのに過酷な作業で命を落とす、囚人労働は廃止。 
  囚人は果たして二重の刑罰(島流しと労働、それによる死)
  を受けなくてはならないのか? と当時の世論・国会でも非難されました。
  
  声を挙げたのは、囚人と間近な、心ある典獄(刑務所の所長)や、
  多くの教誨師 (受刑者を教え諭す人。当時はキリスト教の牧師)の方々でした。
  遠軽家庭学校の創立者で、支湧別の開拓にも関わった、留岡幸助もそのひとりです。  
  この方は、網走から空知監へキリスト教の教えを囚人たちに諭しながら、
  工事の小屋を巡り、白滝の小屋にも訪れています。その悲惨さに祈りをささげた、
  という記録が残っています。

  瀬戸瀬、白滝の囚人墓地には、棺に埋葬され、墓標が立てられ比較的丁重に葬られた
  遺骨が出ています。鎖をつなげたままでもなかったそうです。
  これはこのあたりの工事当時就任の、網走分監長の有馬四郎助の方針によるものだといわれ、   
  鎖をつなげずに作業に当たらせたことが記録に残っています。
  
  川湯の硫黄山の硫黄採掘による囚人の死者、毒による失明者が続出したときには、
  釧路の典獄の大井上輝前が、あまりの悲惨さに囚人労働を独断で中止し、
  囚人労働廃止に職をかけて力をそそぎました。


釧網本線、美留和駅にて、冬の湿原号。2007年1月。この時は重連で、C11の171号機の後ろの207号機が不具合で、川湯駅の直前で美留和に緊急停止したものに出くわした。長男撮影。
この路線は、硫黄採掘のため、その昔釧路鉄道が安田財閥のチカラで敷かれ、今の路線の基盤となりました。
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  現在の行刑の目的は、自由な生活を制限し、受刑者の犯罪性を除き、正常な社会生活へ
  復帰できるようにすることにあります。囚人の労働は罰や報復ではない。
  当時でもすでにそれは理解されていました。
  しかし、懲罰刑は間違っていると指摘されていても、
  囚人労働を続けようという政府の意見は強かったそうです。
  行刑方針が、開拓事業・軍事と切り離されず、資源開発に乗り出した財閥企業との癒着も
  強かったためでした。今も名のある大きな企業は、国から囚人をかりて困難な作業をさせていたために、
  幌内炭鉱などでも非常に多くの犠牲者をだしました。

  新聞などの報道機関もありましたが、公平で事実を伝えるはずの新聞は、
  公正な目を向けず、そらしていました。、
  囚人は悪いことをしたのだから、開拓のために死ぬまで働かせて 当然、
  のような雰囲気が、一般社会にもあったからなのでしょう。

  囚人労働は、北海道の開拓の初期に、北海道全域で行われています。
  外国でも、囚人労働や奴隷労働の例が多くありますが、
  明治時代では、「監獄による開拓」「移民による開拓」「屯田兵による開拓」
  の三つが、北海道の開拓の方法でした。

・・・囚人労働と鉄道・・・

  「移民や屯田兵のための下地」を作るために、囚人が使われ、
  「樺戸」「空知」「釧路」「十勝」「網走」の集治監はそのために設置されました。

  この囚人労働の推進には樺戸集治監の 月形 潔 典獄
   (JR駅もある月形町の名前の由来の人) の意見が反映されていました。
  JR中小屋駅(月形と同じ札沼線)は労役囚人の休泊小屋が由来です。
  三笠は、元は幌内太といい、北海道初の鉄道・幌内線の駅でした。(廃線)
   空知集治監の囚人が、故郷の三笠山(奈良県)に似ていると、景色を見て懐かしんだことから
  三笠と名づけられたそうです。
  石北本線の天幕駅(廃駅)も、中央道路建設に地名由来するとの話もあります。
   工事時に天幕を張ったとか、測量時に天幕という人による道案内があったからとか。
   北海道の鉄道のあちこちにも、囚人の足取りが残っています。



現在の天幕駅跡に残る、碑。ここには、鉄道敷設の際に天幕三次郎(清水姓のかたが、後ほど天幕を名乗ったと、明治期の愛別町史にあるそうです。)さんが、当時の道庁鉄道部長、田辺氏(狩勝峠の命名者)を案内したことに由来、と書いてあります。天幕駅は平成13年廃駅。
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下は、隣の、中越駅。現在は信号所です。駅の構えは天幕も全く同じでした。
開業昭和4年当時のままの駅舎です。現在も北見峠の除雪や保線のため、冬期間のみ作業員の方が夜も徹して詰めていらしゃいます。鉄道の安全な運行のために。ありがとうございます。
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当時中越の地元の方が、自ら手で彫っただろう開通記念碑。
・・・いずれも、長男撮影。すみません、列車以外の写真は、長男苦手にしております・・・。
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  昭和48年 白滝での発掘・慰霊祭で当時の網走刑務所所長が弔辞を述べています。
  「明治政府の国家的事業ではありましたが、囚人使役決定の思想的根源において、
  囚人蔑視、人道無視、難工事によって骨を埋めることあるを予想し、工事完成上
  「やむをえない」とした態度がなかったとは何人が断言できましょうか」
 
  昭和49年、北見峠の慰霊碑を建てる際、当時の国松 一敏白滝村長が
  村議会で発言したそうです。「村があるのは道路のおかげ、道路は囚人のおかげ」と。
  
  道路があって、村があって、鉄道が通る。
  囚人たちの遺したものの上に今の生活があるのです。
  忘れずに心に留めておきたいものです。


北見峠にある、慰霊碑。高規格道路ができたため、ここを通るものも少なくなってしまいました。
・・・が、実は冬期間、クロカンをしている人、スノーモービルをしている人で、大変にぎわっているのです。峠をバイクで訪れる方も多いです。どうか、手を合わせ、思いを寄せて下さいませ。
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碑文。
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「中央道路開削経過
中央道路は網走に起り北見留辺蘂佐呂間野上を経てこの北見峠を越え 上川愛別旭川に至る当時全長五十七里十四町十一間(二二五㌔四○二㍍)の殖民道路であり拓殖と北辺防衛上きわめて重要視されて開削されました。しかもこの道路の北見側はその大半が釧路集治監より網走仮分監に映された千百余名の囚人を使役として開削されたものであり明治二十四年春着工以来わずか七ヶ月余りを経た同年十一月にはこの北見峠まで網走から三十九里(一五六㌔)の道路が完成を見るに至りその作業能率は今にして見れば驚異的なものでありました。したがって作業内容は想像を絶する酷使につぐ酷使、不眠不休の労苦が続けられ特にもっとも惨を極めた野上(遠軽町)北見峠間は過度の労役と病にたおれた死者百八十余名にも及び死亡者は路傍に仮埋葬されたまま弔う人もなくそまつな名もない墓標は風雪にさらされたまま月日のたつに従い消え去り今になっては埋葬された場所もほとんどが不明になりました。その後昭和三十二年春白滝村字下白滝で六体を発見収容、昭和三十三年遠軽町字瀬戸瀬で四十六体を発見収容、更に昭和四十八年十月白滝村字白滝東区で六体を発見収容、それぞれ供養の上改葬しましたが未だ当時埋葬のまま地に眠れる例の多いことを想い、ここに殉難者慰霊の碑を建立し、この道路建設のいしづえとなった囚徒の霊の安らかな眠りを念ずるものであります。」


 
  「相内村誌」(今の北見市の一部)に、こんな意味のことが書いてあるそうです。
   「・・・こうして彼らが血と涙によって開いたこの道路は、北見地方開発の大動脈となり、  
  その便利さ、地域社会の発展をもたらしたことを思えば、
  彼らも静かに眠ってくれるのではないか・・・。
  彼ら囚人はこれによって罪を償ってさらに余りある。ここに一言して亡魂を弔う」
 
  囚人労働のその後は、約60年「タコ労働」に取って代わります。
  
  タコ労働は、囚人労働の経験が生み出したもので、
  国と大企業とによる「開拓・発展」のための必要悪として、
  発展さえすれば、労働力は多く安く、の資本主義・資本の論理が大きく影響しました。
  国の近代化のために人権無視やむを得ず、という囚人労働の経験により、
  北海道は、虐待や差別や労働がまかり通る「罪囚植民地」としてのイメージがついてしまったと
  いわれています。家庭や教育の場まで。
  しかし、その悲惨な労働によって、北海道の鉄道も急速な発展をしたのでした。    
舌がんのこと 2009.04.22 (水)


術後9年経ったけどダンナの体調は良いとは言えない。ここ2年とくに体の悲鳴が増えている。
去年の夏は本当に苦しそうだった。でも 本人じゃないので私には所詮ヒトごと どれをどうやってもそうなる

舌の3分の2切除、切除部位の移植、
左リンパ節への転移、首を支える筋肉にもガンが触れていたため、筋肉もリンパも郭清術を受ける。
首を支えられなくて体がゆがみ、放射線治療もあり首の痺れ、こりがひどい。舌の切除だから咀嚼、嚥下は当然ながら、困難を極める。食事にもかなり工夫がいる。
寝ていても口が引っ張られるから、いつも開いたままで、風邪も引きやすい。うがいができないし。
発音も悪くなる。寒い日雨の日は、しびれて、言葉がほとんど聞き取れない。
唾液すらのみこめない。
最近は、深夜と早朝の首、顎、肩のマッサージをしないと、職場で声がでないという。
でも、教師をやっている。英語とか国語でないからよかった、という。
マッサージ人の私は寝不足

なんども 忘れることのないようにと書いてみたりする 
忘れないようにメモ というのもブログの役割か

9年たって再発してないのはかなり珍しいらしく、主治医のいる大学病院にいくたび研修医の見せ物だ。
でも放射線治療部位は8年たった今になって、歯骨が壊死し、全部抜けてしまった。
顎の骨もおそらく壊死しているだろうとのこと。恐るべし、放射線被爆。
でも9年足っているので、ガンが再発してもそれは再発ではなく、新たなものとしてあつかう、とのこと。
長い闘病生活、術後後遺症生活のストレスから、(年のせいもあるけど、と、いわれましたが笑)
体が弱くおさないころから何度も死線をくぐってきた、ずっとメメント・モリのダンナの人生。
だからなのか 自分が生きてく上でのリズムをくずそうとしない それも よかったのか わるかったのか
ダンナひとりの人生ならよかったのかもしれないけれど

頑張れなんて、頑張ってるひとにいえない。
そのがんばりの先に 心乱れることがあるだろうに受け止めきれない申し訳なさをかかえてるじぶん
命を与えてくれた存在への礼儀として、なにがあっても大丈夫な覚悟、毎日の平凡な暮らしをなるべく大切にしたい


今日、大安吉日。
結婚する人、おめでとうございます。
何かを決断する人、きっと、いいことがありますように。

いつまでもかわらず、これからの豊かな日々と、特別な幸せと、実りある思い深い愛が、
絶え間なくありますように、祈っています。