白滝の鉄道史 2009.05.28 (木)
・・・石北本線の駅・・・


伊香牛駅から愛別へ、そして北見峠のほうへ向かう。白いラインのない、北海道の色の赤い貨物。
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下白滝駅から、旧白滝駅へ、そしてこちらも北見峠の方へ。
貨物は働き者です。DD51,プッシュプルの最後尾。
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  測量から10年、旭川~遠軽間124.5㎞。

昭和7年 、遠軽~野付牛間を湧別線より編入し、新旭川~野付牛間を石北線と改称。
昭和36年 4月1日、
  網走本線(網走線)北見~網走間を編入、石北本線と改称します。

駅・信号所
  網走  (もと浜網走)          
                  ~野付牛、 大正元年(1912年)10月 網走線として開通
  (浜網走、もと網走停車場  貨物駅 昭和59年廃止)
  呼人
  女満別
  西女満別
 (もと旭野 昭和22年 仮乗降所として開業、昭和25年駅に昇格)
  美幌
  緋牛内
  端野
  愛し野
(昭和61年開業)
  柏陽 (昭和32年 仮乗降所として開業、昭和62年駅に昇格)
  北見(もと野付牛
                 ~留辺蘂、 大正元年(1912年)11月 湧別軽便線として開通
  西北見(昭和61年開業)
  東相内 (もと相ノ内、東相ノ内
  相内(もと上相ノ内、相ノ内
  (下相ノ内、昭和25年 仮乗降所として開業、昭和42年廃止)
  留辺蘂                 
                  ~下生田原 大正3年(1914年)10月 湧別軽便線として開通
  西留辺蘂(平成12年開業)
  金華(もと奔無加
  常紋信号所 (平成13年6月より機能停止)
   常紋トンネル
  生田原 (もと上生田原
  生野(昭和21年 仮乗降所として開業、昭和62年駅に昇格)
  安国(もと下生田原
                  ~遠軽   大正4年(1915年)11月 湧別軽便線として開通
  遠軽             
                   ~丸瀬布   昭和2年(1922年)10月 石北東線として開通
  (新栄野 もと野上、昭和32年 仮乗降所として開業、昭和62年駅に昇格、
      平成18年廃止)
  瀬戸瀬
  (伊奈牛 昭和31年 仮乗降所として開業、平成2年 廃止)
  丸瀬布
                     ~白滝      昭和4年(1927年)8月 開通
  下白滝
  旧白滝
(昭和22年 仮乗降所として開業、昭和62年駅に昇格)
  白滝      
                    ~中越      昭和7年(1932年)10月 開通
  上白滝
  奥白滝信号所(平成13年廃駅)
   石北トンネル
  上越信号所(昭和50年廃駅)
  中越信号所(平成13年廃駅)

                  ~上川 昭和4年(1929年)11月 石北西線として開通
  (天幕 平成13年廃止)
  上川        
                       ~愛別       大正12年(1923年)11月 開通
  東雲(昭和35年 仮乗降所として開業、昭和62年駅に昇格)
  安足間
  愛山(昭和35年 仮乗降所として開業、昭和62年駅に昇格)
  中愛別
  愛別      
                      ~新旭川       大正11年(1922年)11月 開通
  伊香牛
  将軍山
(昭和35年 仮乗降所として開業、昭和62年駅に昇格)
  当麻
  桜岡
  北日ノ出
(昭和35年 仮乗降所として開業、昭和62年駅に昇格)
  東旭川
  南永山
(昭和61年開業)
  新旭川

北見駅。働き者の貨物達、ひとやすみ。貨物はここが終点です。
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丸瀬布駅にて。ホキ8000・・・・だよね
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上白滝~奥白滝、そして峠に向かう。
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旭川駅にて。終了寸前のこの2車両。
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同じ頃、旭川運転所のデビュー前のスーパーカムイ
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石北本線は新旭川までですが、列車は全部旭川まで乗り入れています。

北海道初の鉄道、手宮線 昭和60年廃止、
幌内線 昭和62年 廃止
湧網線 昭和62年 廃止
名寄本線 平成元年 廃止
網走線(池北線)平成元年 第三セクター北海道ちほく高原鉄道(ふるさと銀河線)に転換               ふるさと銀河線は平成18年 4月 20日廃止されました。
多くの労働者の犠牲を伴い、石北本線よりさきに交通網として開通した歴史ある路線が、
  次々と廃止されています。
そんな中、沿線の人口は減り、利用者も少ない路線とはいえ、
石北本線はいまだ道央と道東の大動脈です。

鉄道風景 2009.05.27 (水)
旧 湧網線、計呂地駅にて。現在は鉄道公園になっている。
駅舎は資料館。
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雨だと、ダンナの具合が悪い。
機嫌も悪い。
辛いのは分かるのだけど、いつものことをしているのに、うるさい!と、しかられる子ども達もつらい。

苦しいけれど、そんな顔一つ見せず、他の人のことを気にかけ、心配する・・・・

なんて、できた話を聞くけれど、
この人は、そんなことはしない。実際病気になったら、そんな立派にはなれないのが本当だとは思う。
自分のクラスの子に対しても。・・・こっちには八つ当たりはしないけれど・・・きついことはきついんだから、いちいちそれを覆っても、限界が来るんだと、言う。

クラスの子も、うちの長男もその辺はわかっているようなので、上手く立ち回る。
でも、次男はねえ・・・・ちと、かわいそうなので、必死にフォローをする私。
こうやって、次男もウチの家族の事情って言うものを理解して行くんだろうな。


あることを成し遂げようと言うときに、準備するためにはことを慎重に、時間かけてでも慎重に手順通り運ぶ。
確認作業もなしに手順をふっとばしてやろうとすると、かえってやりなおしに時間をかけるから。
ほつれが治らないときだってあるから。

・・・そんなことを、ダンナも調査や研究の作業の時、または自分のクラスの学級運営や授業の時にはそう心がけているという。実際、見ていてそうなんだろうと思う。
でも、自分のカラダの調子についてはどうもなかなかこなせない。
まあ、あれもこれもに心砕いているわけにはいかないんでしょうけどね。
優先順位に自分のカラダを持ってきているようで、もってこれない、仕方がない、やりたいこと優先、大事だと思うことに寄り添いたいのだものね。

うちのシグナルさんの腕も、上がりっぱなし。
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ダンナは今日大変しんどくて、今期初の仕事病欠。主治医のところに受診するのに列車で往復6時間、じっと座っているだけで首を支えきれず、歯もないので力も入らず、今日はおまけに雨なので痺れもひどいらしい。しゃべれてない。

ダンナの歯、自ら抜けてしまった歯達の周囲の在細菌が悪さをして、自立している歯も壊死していて歯茎で支えてる状態なのに、また抜けかかってる。神経は残ってるので、ゆれるたび痛いらしい。舌ガンの放射線治療の影響で溶けてる歯と骨なので、これを安易に抜くと、骨髄炎罹患のおそれがあるので入院して抗生剤点滴しつつ抜歯するそうだ。
入院抜歯までは経口の抗生物質で、何かあったらすぐ病院直行と言うことで、診察終了。

夏休み入院予定。それまでもつのかな。
ひとつひとつ、今日も、明日も、生きてく術を探りつつ。
もうちょいとの、辛抱を重ねつつ。







「しあはせの手紙」


突然失礼致します
此れは不幸の手紙ではありません

だつてほら
眞冬と云ふのに
なまあたたかい風が吹いている
時をり海の匂ひも運んでくる

道では何かの破片が
きらきら笑ふ

貴方の背を撫づる太陽のてのひら

貴方を抱く海苔の宵闇

留まっては飛び去る正義

どこにでも宿る愛

そしていつでも用意さるる貴方の居場所


・・・・・・ごめんなさい


いま此れを読んだ貴方は死にます


すずめのおしゃべりを聞きそびれ
たんぽぽの綿毛を浴びそびれ
雲間のつくる日だまりに入りそびれ
隣に眠る人の夢の中すら知りそびれ
家の前の道すらすべては踏みそびれ乍ら

ものすごい速さで
次々に記憶となってゆくきらめく日々を

貴方はどうする事も出来ないで

少しづつ 少しづつ小さくなり だんだんに動かなくなり

歯は欠け
目はうすく
耳は遠く

なのに其れをしあはせだと微笑まれ乍ら



皆が云ふのだからさうなのかも知れない

或ひは単にヒト事だからかも知れないな

貴方など この世界のほんの切れっ端にすぎないのだから

しかもその貴方すら
懐かしい切れ切れの誰かや何かの寄せ集めにすぎないのだから



「あんた・・・・
よう広島で生きとってくれんさったね」

・・・・・

どこにでも宿る愛


変はりゆくこの世界の
あちこちに宿る切れ切れのわたしの愛


ほらご覧
いま其れも
貴方の一部になる

たとえばこんな風に


・・・・・

「見い
九つの嶺に守られとろう
ほいで九嶺(くれ)いうんで」

「うしろは海」

「右のんは休山」

「左のんは鉢巻山
その向こうがヒロシマよ」

「ほいでまん中のんが灰ヶ嶺
あのすそがわしらの家じゃ」

「ありゃ?
寝んさったかね」


・・・・


今わたしに出来るのはこのくらいだ

もうこんな時
爪を立てて誰の背中も掻いてやれないが
時々はかうして
思いだしてお呉れ



                   草々




          この世界の片隅に 下  こうの史代 著



自分だけが特別なのではない。みんな自分の時間を生きているだけで、決して特別なんじゃない。でも、自分にしか感じられない時間を過ごしている。戦争中であっても、病を抱えた日々であっても、食べ、眠り、いこい、働き、おしゃべりもする。それぞれの状況でそれぞれにだらだらとさくさくと日々は続く。自分だけが悲しいのではない。自分だけが辛いんじゃない。自分だけが楽しいんじゃない。
でも、生きている限り、誰のものでもない自分の思いと行いと言葉を持ちながら日々を過ごす。

我が恵み、汝に足れり








白滝駅 2009.05.25 (月)
「シグナレスさん、どうかまじめで聞いてください。
僕あなたの為なら、次の十時の汽車が来る時腕を下げないで、じっと頑張り通してでも見せますよ」

「あら、そんな事いけませんわ」

「勿論いけないですよ。腕を下げないで頑張るなんて、そんなことあなたの為にも僕のためにもならないから僕はやりはしませんよ。けれどもそんなことでもしようと云うんです。僕あなたの位大事なものは世界中ないんです。どうか僕を愛して下さい」

シグナレスは、じっと下の方を見て黙って立っていました。

                    ・・・・・・・・「シグナルとシグナレス」 宮沢賢治 作。

せっかちなシグナル、気の弱いシグナレス。

本線の信号機と、軽便鉄道の信号機。
そんな風な、恋人同士に見えたのかな、賢治さんは。


ほっ、と、ちいさなため息を付く、シグナレス。



返事をくれないのを待てない、せっかちなシグナル。
立派に立っているけれど、もうこの信号も、せっかちどころか、言葉さえ、ない。
廃線、渚滑線にて。
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言葉の持つ力だけに、頼ろうとは思わない。

でも、言葉は文化を運び、
コミュニケーション手段の大きな手がかりで、それを使わないでいるのは無理。


郷土史を、知ろうと思うとき、
常に頭に置いているのは、私が知っている歴史はほとんどが勝者と云われる側の言葉で綴ってきたものであり、たとえば本や資料、町史村史を読みながら、この言葉を選ぶまでにどういう流れがあったのかを思って、思考が止まることもある。




自分の言葉さえ、正しく整えられないのに・・・・。





自分の言葉が、伝わらないって、どんな感じか。


町田康さんの本、なんだったかな・・・・「告白」だったかな、本の名前。
主人公・熊太郎が、泣きながら、お天道様に向かってつぶやいたシーン。
自分の言葉はどうして人に伝わらないのだろう。愛する人にさえ、上手く伝わらない。
自分の言葉がまるで異星人のもののように思われている。
誰か一人でも、自分を、愛してくれる人があったなら。
それだけで、たとえ他の人が分かってくれなくても、自分は自分でいることに安心があったのに。
たくさんの人などいらない、一人だけで良かったのに。
「あかんかった。」
泣きながら、つぶやいた熊太郎。
言葉が伝わってくれなかった悲しみは、関わりのある人を皆殺しにするという行為に及び、
自ら崩れた。
自らにも銃口を向け。
あかんかった、と、泣いた。


この姿に本で出会うたびに、こみ上げてくる、涙。
熊太郎の様々な思い、悲しみ、悔しさ、寂しさ、切なさ、愛されたいと願い続けた愛しさに、涙が止まらなくなる。
愛されている自分の姿に出会うために、生きてきたんだよね。
精一杯つとめてきたんだよね。

なのに、かれは崩れた。
一昔前の話。


彼だけではない、この世間。



たったひとりでいい。
「友だち百人出来るかな」
なあんて、いらない。
思いと言葉と行いが不一致であっても、
そのままの自分のすがたをみてくれること、受け止めてくれることの幸せは、たったひとりでいい。


そう、思ったのは、ここにいるわたしだけではなく、
あの、碑にいる人の魂魄でさえ、
そう思ってはいないだろうか。

・・・・・・・・なんて。

このまま、静かに消えてもいい、ひとりでも分かってくれる人がいるなら。



いやいや、
ほんとうは、それではだめなんだと思うんだけどね。
そうじゃないんだって。
黙して語らず、のときもあれば、語れるときだってある。
伝える努力をしないままでは、だめなんだ。たとえ伝わらなくても、繰り返し繰り返し扉をたたきつづけなくっちゃいけないんだろうと思う。
繋がっていたい。


早朝のオホーツク。長男の入学式のその日。
スタートするために、写真を撮りに来て、よし、って、いった。
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誰かが、君のドアをたたいてる。君も。


疲れ切って、一泊二日の受診旅行から帰ってきたダンナ。
結果は芳しくなかったけど、いますぐどうこうではないので、現状を夏休みまでとりあえずキープすべしとの主治医のお言葉だそうで。






白滝の鉄道史 2009.05.25 (月)
・・・カボチャ団体とは?・・・

  鉄道延期の危機に、鉄道予定沿線の有志は、鉄道敷設の陳情団を組織します。
  大正13年11月、団体53名は遠軽駅を出発。上京し、国会や鉄道省、関係大臣、
  政党・世論に激しく訴えます。
  陳情ののぼりのもと、団員自作のカボチャやイモなどを大量に持ち、
  それらを宿で煮て、弁当にしながら の活動。
  沿線地域の小麦などを原料にパンを製造している、大阪の実業家の援助もあったそうです。
  上京団体には滞在中地元からイモ・カボチャなども送られていました。
  
  白滝地区(白滝、旧白滝、上白滝、奥白滝、支湧別)からは計19名が上京しました。
  (当時の上京者の写真が大庭私設資料館に残っています)

   「鉄道がつかないと、運賃の加算された高い米は食べられない。
   毎日カボチャや芋ばかり食べている現状を見てほしい」と、
   国会の控え室などで、旅館で煮たカボチャを記者らにふるまい、
   カボチャ弁当を広げる百姓風の姿は、東京の新聞や雑誌に何度もとりあげられます。

   「カボチャ団体の陳情」として全国的に有名になり、
   カボチャ団体の様子を見に来る人や、励ます人も全国から来たそうです。
   同情的な記事が新聞や交通専門誌に載りました。

   東京での、涙ながらの、すさまじい請願活動は実を結び、
  大正14年9月、遠軽~丸瀬布間を国は認可、
    11月、石北線最初の工事が始められます。

  その後、次々認可・工事がはじめられ、
  上川から西5工区、遠軽側は東3工区に分かれ、双方から進められました。 

  昭和2年、10月10日 遠軽~丸瀬布間 開業。(東第一工区)
  昭和4年、8月12日  丸瀬布~白滝間 開業。
                             (東第二工区 丸瀬布~下白滝)
                             (東第三工区 下白滝~白滝)
  昭和4年、11月20日 上川~中越間 開業。 (西第一工区)
  昭和7年、10月1日  中越~白滝間 開業。 (西第二工区 中越~上越)
                              (西第三工区  上越~石北トンネル)
                             (西第四工区 石北トンネル)
                             (西第五工区 奥白滝~白滝)
 
 
  工事を請け負った業者(当時の名称)は、堀内組、飛島組、畑江鉱業、地崎組。

  石北線建設概要によると、土工費、橋梁費、隧道費、軌道費、停車場費、諸建物費、
  電線費、運送費など、あわせて建設総額 721万6665円88銭。(当時・・・白滝村史より。) 
 
  当時から、白滝には豊富な森林を資源として木材を扱う業者が多数あり、      
  鉄道工事には、今も残るこれら白滝の地元企業も携わっています。


   

      
・・・石北線 開通・・・


  中央道路でも困難を極めた北見峠に、石北線最大の難所、石北トンネルがあります。

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  今まで、鉄路が旭川から網走に行くのに富良野・帯広・池田・北見と迂回してきたのは、
  とにかく、この北見峠が超難関だったからです。
  
  トンネルの場所は上越駅(現在 信号場)から380mのところ、
  全長4,329m14cm。石狩と北見の国境、北見峠を貫いています。
  地形図や、道路マップを見たら分かるのですが、とてつもなく険しい地形です。


上越駅。(現 信号場)
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後ろはこんなだけど、冬場は峠の除雪保線のため、作業員の方がお泊まりしていることもあります。
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北見国石狩国境と書いてある、旧ホーム。標高638メートル、当時道内最高点のところの駅でした。
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石北トンネル、上川側のシェルター入り口。上に高規格道路、旭川紋別道。
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キハ54快速北見の中から見た、北見側シェルター。交換する特急をここ上越で待つ。
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どうもどうも。特急です。
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  昭和4年 5月12日、上川(西口)側から、「堀内組」の請負で、
        6月9日、 遠軽(東口)側から、「飛島組」請負で、工事が開始。
  工事の経過;はじめ測量導坑を掘り、途中から本坑の掘削に着手。

        工事中の換気と、列車運転の上での安全のため、換気立坑(煙出し)
        を2ヶ所設ける。最大勾配1000分の25  (25パーミル)、
        最急曲線301.75m、橋梁 41ヶ所。(当時)
         トンネル穴の大きさ たて3m5cm、よこ3m96cm
  
  この工事でも常紋トンネル同様、タコ労働者が過酷な環境・条件で働かされ、
  多くの死者がでています。
数ははっきりとしません。
  白滝の地で、石北トンネル工事で、多くのタコ労働者がいて、死んだ人もいる。
  タコ部屋が、白滝にもあったことが白滝村史に書かれています。。
  
  肩にモッコダコをつくって働いていた土工夫の姿を、
  入植者であり、工事で働いていた地元企業の父親から聞いた方もいます。
  また、逃げてきたタコ労働者を母が追っ手からかくまい、食べ物を与え、
  服を着せ逃がしてやったことを、当時子どもだった方が回想しています。
  
  この地区の鉄道工事での犠牲者の慰霊碑は、今のところないようです。
  地域のお寺の過去帳に、もしかしたら供養の記録がのこっているかもしれません。
  
  標高の高い峠、当時の冬はマイナス35度の気温、
  積雪量もおおく、また10月から5月まで長く雪の季節が続きます。
  夏でも、(今でも)半そででは肌寒いところ。しかも熊の生息地です。
  気候も地形も厳しく、湧水もおおく、ただでさえ難工事の場所でした。

  数百人以上の怪我人、トンネル工事の爆薬で犠牲者もでました。
  トンネルの坑道は日の光もなく、水は漏れ、工事責任者も土工夫も顔は泥にまみれ、
  陽もあたらず疲労も濃く、血と汗にまみれ、死の苦しみがありました。(村史より)


 
  昭和6年11月9日、工事は終了。トンネル完成です。 
  昭和7年、10月1日、 石北線、全線開通しました。



白滝発。雪の3月。
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鴻紋軌道 2009.05.21 (木)
紋別市鴻之舞にある鴻紋軌道遺構。
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次男は5才。9月で6才。

彼の特技は人と仲良くなること。草や花や土や石でよく遊びすぐこれらとも友達になること。
人や物とのコミュニケーションをいとも簡単に、楽しく、豊かにやってのけること。

次男も長男同様、他の園児らと違い、なかなか不思議君で、絵をなかなか描かない。
描いて、というとちゃんとかわいいセンスある絵を年相応に描くのだけれど、そうでなければ、
長男のように架空の路線図をかいたり、大好きな地下鉄の絵だったり、記号や矢印、しまいには簡単な数式まで、園のグランドの土の上で木の枝で書いているそうだ。二桁の足し算まで。
長男のような発達障害のこだわりのそれほど強くはないが、なにより長男と決定的にちがうのは、その、コミュニケーション手段の豊かさ。

3才になったばかりの時、網走のスーパーで鯛焼きを売っていたおっちゃんに見込まれ、
「この子は商売にむいている。屋台引いたらきっと人気出る」とか言われた。
この間は層雲峡の土産物屋のおばちゃんとソフトクリーム売りのお兄ちゃんとも仲良くなり、アイスをおごってもらっていた。おばちゃんの小学校時代の話を聞いて盛り上がっていた。
先週は、とこやさんのおばちゃんに、髪を切ってもらってる間中、しゃべり続け、とうとうおばちゃんの週末の演歌のコンサートに行く予定と時間と誰と行くかまで聞き出した。

初対面の人とものすごく仲良くなる。
知らないひとについていったら、ママとパパと、もう会えなくなっちゃうよ、絶対ひとりでいかないでね、
絶対ついていかないでね、・・・・と、なんども口をすっぱくして言っているけれど・・・

すごい才能だと思う。
長男があれほどコミュニケーションに苦労しているのを見てきているだけに、
ほんとうに、すごい。
私も長男の交流関係、友達作りでのトラブルをたくさん苦労してきただけに、
次男は、友達を作り、約束もし、自分の気持ちを言葉にし、全身でコミュニケーションを楽しんでいる姿を見るだけで、もう、この子は、大丈夫、
うれしいと思う。

次男は人に触れるのが大好きだ。(長男は感覚的に苦手だった)
自分ももちろん甘えたい、でも、何か人が・・・とくに母や父や兄が辛そうにしていると、くっつこうとする。
辛い本人としては、できればひとりにして欲しいと思うんだけど、これが次男の、人への寄り添いなのだと思う。

自然と、その人にちかづき、よしよしとなで、人を癒そうとする。
そんなチカラの次男。




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この慰霊碑の前では、毎年、住友の関係者、鴻之舞鉱山関係者などが慰霊祭を行っている。

慰霊碑跡付近の鴻之舞遺構。
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ここには、鴻紋軌道が敷かれていた。
鴻之舞鉱山と名寄本線紋別駅とを結ぶ鉄道で、鉱山軌道ではないのだけれど、金山を所有する住友の会社の着工のため、「全国鉱山鉄道」の本に掲載されている。
昭和15年10月着工、昭和18年6月完成。
昭和18年6月開業、 昭和24年廃止。
区間距離28㎞。
軌間は762㎜のナローゲージ、B型サイドタンクの13トン機関車が走っていた。

鴻紋軌道遺構。
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沈殿地のまわりの柵、かつての鴻紋軌道のレールを使用している。
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上藻別駅逓にある、鴻紋軌道の車両の写真。詳細はリンク先のこちらまで。
動輪径は610㎜。日立製作所笠戸工場製。
タマネギ型の煙突は、内部に集煙装置内蔵。火の粉がとび火災になるのを防ぐため森林鉄道には特有のもの。鴻之舞での役割を終えたあと、十勝上川森林鉄道で稼働していた。
(参考文献   全国森林鉄道、全国鉱山鉄道、同人誌トカプチ 鉄道廃線跡を歩く 日本における森林鉄道用蒸気機関車 知られざるナローたち など。)
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紋別駅跡は、もう、その懐かしい遺構は何一つ残っておらず、正直がっかり。
片隅に、鴻之舞出身の「銀色の道」作曲者・宮川 泰さんゆかりの、鴻紋軌道記念碑はある。
銀色の道とは、鴻紋軌道を思い浮かべたモノなのだそうだ。
懐かしくて、切なくて、綺麗な歌。

でも、名寄本線の物はなし。
あれだけ名寄本線存続に力を入れ、運動していたのに、空港と引き替えなのか、ここの鉄道の香りは消されてしまっている。
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家族で、上藻別駅逓に行くのが楽しみの一つ。

ダンナはかつて大学時代にここを調査で訪れており、岩石を専門としていた者としては大変優れた資料の宝庫。

長男は鴻紋軌道の遺構探しが大好きで、鉱山内で稼働していた坑内鉄路の情報も持ち、駅逓外の輸車路をじっくり見るのが大好き。ここは資料の宝庫。

次男は、駅逓の資料をいじること(ここはなんでもさわらせてくれるので)と、
駅逓の保存会のおじさまたちや、おばさまたちとおしゃべりしてすごすのが大好き。
ここの虫さんを追いかけて捕まえるのも大好き。

私も博物館好きとしては垂涎の場所。

塗らせてもらう、お手伝い。
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ここは、わたしの実家ににてる。
私の家は平屋だったけど、駅逓の作りによく似ていた。
台所、黒いソファー、木の板の廊下、玄関。

慰霊碑あたりの、天気なのに木々で軟らかな、涼しい・・・寒気も感じる日差しは 故郷の神社の日差しに似ている。
木がたくさんあるにもかかわらず、道路の近くであるにもかかわらず、人の気がない。
何かの気配だけがある。
神社には泉があった。
アイヌ語で、メム、泉。扇状地の端に湧く泉。そこは開拓時代、旧藩士たちが自分の故郷の名を付けた神社を建て、ここを百番地として心の支えにしていたところ。
神社の祭神の他に、泉には龍神さんがいた。

何度、龍神さんの真横の小さなベンチに座ったかな。いつも泉の湧く小さなりろりろした音を聞いていた。りろりろと、湧いた水は池となり、弁天さんが池の真ん中にいた。
毎年の秋のお祭りの時、いつも泉の前で座っていたおじいさん。両手の手首から先が無かった。戦争で失くなっちゃったんだよと、教えてくれた。ぞんざいな義手で支えてハーモニカをひいて、お金をもらってた。私はお金をあげなかったけど(もってなかったから)、毎年ハーモニカを聞いた。
お祭りに行かなくなっておじいさんとも会わなくなったけど、よくひとりでここで座った。
中学生のくせに、メンソールの煙草なんか吸って。泉を汚すかも、なーんて思って泉から少し離れて、ジュース缶に灰を入れて吸ってたのは、ほんの少々の良心。
今さら私なんかが泉を汚すって思うなんて、と、半ば自分を嗤いつつ。

同じ空気が慰霊碑のところにはある。



ふと起きたら、次男が鼻血出してた。ほじったらしく指に確かな証拠あり。でも、眠っている。
血のあとをとり、鼻が詰まらないように次男の枕のはしっこにハッカオイルをつけておく。
希望の次男。たくさんの人との関わりで、たくさん学び、繋いで下さい。
豊かな日々が、息子たちの上にありますように。
神さまがいつも共にいて下さいますように。


続く 続く・・・明日も続く はるかなみち