上白滝 2012.11.01 (木)




母の通う教会では毎年今日 11月1日 万聖節に 祭壇に故人の写真が並ぶ
教会の亡くなった信徒たち 信徒の想う親しい人 思い思いに写真を持ちより泣いたり笑ったりして偲ぶ


子どものころから私を可愛がってくれた信徒のTさんの写真も毎年そこにいる
「明るいオレを覚えていてほしい」 亡くなる直前に牧師さんに笑ったのだそうだ 20年も前のこと

その人の写真を見るたびに 母はいつも同じ話をする

「いつもだじゃればっかりいってね、楽しい人だった
牧師さんにもね「そんなこと言ってばっかりいたら楽しくないべさ ははは」って肩叩いて笑ったりね
なんでも屋だったんだ 教会の用務員さんみたいになんでもしてくれた 決して表には出ないけど
教会の人間関係もドロドロで どうしようもないことがあっても その人はいつも場を明るくしてくれた
そのドロドロを みんな吸い取って天国に行っちゃったんだよね」 と

Tさんの死の向き合い方と その死に対する周りの人の向き合い方は 
教会という場であっても(そういう場だからこそ)長く人が集うと出来てしまう澱みを澄ませたのだとか


懐かしく思う気持ちと 感謝の気持ちと 自分の愚かさを切なく思う気持ちと
もう会えないんだという悲しみと 
あのようなヒトに出会えてよかったと 母はいつも同じ話をしては泣き笑いする

私は母以上に忘れっぽくて薄っぺらいけど
「覚えていてほしい」といったコトバと写真とでなんどもやさしい記憶をたどることはできる




たいせつなことも ほんとにしんどいことも どうしようもない何か大事なことっていうのも
ヒトの目に見えないところで 笑顔の後ろで それぞれのの底辺にとうとうと流れてる
Tさんの底辺にも もちろんその色で 速さで 長さで 川が流れてただろう
それを 聞こうと思えば父や母や他の人から聞けるし 知らないことだって憶測できる
 
でも あの写真の笑顔は 誰か経由ではなくいまもそのままのその人の事実で
何の飾りもないし削ぐこともないし 
「ちゃんと覚えてるよ Tさん」 って いつでも声をかけられる

そういうふうに覚えてもらえるのって 覚えてるのって いい




笑顔の証拠もなく そこに在ったという実感もないまま たいせつなものを失ったという事実だけがあると
どうやって 思い出したらいいか
どうやって 慈しんだらいいか
とにかく悲しいことをどうやって処理したらいいかわかんなくて
でも処理をしなくては 自分の立場を保っていられなくて
困ったなあって・・・ 心底困ったことがあった
 
森羅万象のなにかに気持ちを重ねたり たとえたりして 自分を癒そうとしたり
癒される自分が嫌になって 何度も過去のあのつらいポイントに戻ろうと無理やり胸をえぐろうとしたりして
自分の行為に意味付けしたり否定してみたり あわててふらふらしたけど
あれは 見えないものをなんとかして触れられるぐらいまでにカタチにしようとする、必死の作業だったんだと思う


年齢や立場に応じたおちつきとか 自分で作り上げた「こうあるべき」という空気に 長いこと抗いひずんでた自分を
最近になって自覚して 
ようやく「たいせつなものは目に見えないんだ」ていう星の王子さまのコトバがわかるようになった


カタチにならないものをカタチにしようとしたり
飾ったり傷つけたりした方が覚えやすくて忘れなくていいけど 本物じゃないから 
どうせ遠ざかる記憶なら薄れるほうがいいのかもしれない
薄れても忘れない 思いだせなくても思いだせないだけで忘れない
そう思えるようになるまでには 時間はかかったけど



大事なことは そんなにたくさんでなくていいんだよね 
最期には
たいせつな写真一枚と  
「覚えていてね」「覚えてるよ」の 言葉だけでいいのかもしれない





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